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“「何が学校だ! 学校に行くくらいなら死んだ方がましだ!」
N君が言いました。わたしもそう思います。”


そんな書き出しで始まる手紙を、「うちのタマ知りませんか?」の便せんに書いて担任の先生に出したのが、小学5年生の3学期。

時は32年前です。

まだ20世紀で、1980年代で、昭和でした。

当時は不登校という言葉ではなく、「学校恐怖症」から「登校拒否」と言われるようになった頃。

わたしが住んでいたのは北海道日高地方の小さな町で、サラブレッドや乳牛がたくさんいる広々とした風景の中でした。

小学校も中学校も高校もそれぞれ町に一つずつ。

父親は教員。

そんな中で、初めての「学校に行けない子」になりました。

理由は、と聞かれても、今でもはっきりとはわかりません。

幼稚園の頃からそういうところが苦手で、行き渋ったり脱走した記憶があります。

転勤族の子なので小学2年で一度、転校しています。

小学校ではたまに行き渋る他は優等生で、作文が得意で、男子とよく遊び、学級委員では副委員長や書記をやるタイプでした。

あの手紙の冒頭に出てきたN君は架空の人物で、わたしが言いたいことをかわりに叫んでくれる役割で登場しました。

叫びたくても、優等生の自分のままでは叫べない。

だから、架空の人物の叫びに同調する形で、なぜ自分が行きたくないのかをつづりました。


学校ではとにかく、息苦しかった。

バブル時代で、ネアカがハッピー、ガリ勉はネクラと言われる頃。

先生の言うことに真面目にしたがって、周りの子のように「ほどほど」にすることができず、特に女子グループからは浮いていました。


高学年になると、もう男子グループに入って遊ぶこともできなくなり、休み時間が所在の無い時間になりました。

でも、学校へは行かなきゃ。


でも、お腹がいたい、頭が痛い。

そんなことを繰り返しているうちに、ささいな物音に過敏になったり、尖っているものが見ていられなくなりました。

高校の教員だった父は、そのような生徒と関わった経験がありました。

娘が同じような様子を見せ始めたことで、学校に行かないことをついに認めたのです。

それから長い長い登校拒否期間がありました。


3つ年下の弟も、その数カ月後から学校に行かなくなりました。


それで、小さな町で、いえ、日高管内の市町村で唯一の登校拒否児童になりました。


(これは、学校の先生が母親に言ったことなので、本当かどうかはわかりません)


学校に行かないきょうだいのわたしたちは、放課後の時間は普通に近所の子と遊んだりしていました。

学校がある日中は寝ているか、きょうだいだけで遊んでいました。

見かけはただ遊んでいるだけです。

しかし、
「学校に行けないのは心の病で一時療養しているだけだから、いつかは治療して戻らなきゃいけない」
と思っていました。

札幌市まで高速バスに乗って、大きな病院にカウンセリングを受けに通いました。

保健室登校、校長室登校、特別支援学級への通学もしました。

小学校を卒業して、エレベーターを昇るようにみんな同じ顔ぶれの中学校に入学。

制服も一式買ってもらって、最初の一カ月は頑張ったけれど、GWが明けたらもう一度登校する気力がおきませんでした。

中3になる時に親の転勤があり、札幌市へ引っ越し。


誰も自分のことを知らないリセットされた環境でなら頑張れるかも......。

今度は優等生キャラにならないようにおどけながら、女子グループに入ってなんとか過ごしました。

だけど、そのエネルギーはやはりGWまででした。

もう、どうしたらよいのか……。

そんな矢先、アイドル雑誌「明星(現Myojo)」に保坂展人さん(現世田谷区長)がライターとして連載していた「元気印レポート」で、札幌に初のフリースクールが誕生したことを知りました。

そこに書かれていた連絡先にドキドキしながら電話をかけて、見学に行き、そのフリースクールに通うことにしました。

わたしは初めて自分たちきょうだい以外の「学校に行けない子」たちと出会ったのです。

それはもう、無人島でサバイバル生活をしていた人が、他の人間と出会ったようなもの。


たくさんのおしゃべりをして、遊んで、話し合って、ケンカして、恋愛をしました。

自分たちの体験談を元に小さな劇を作り、上演をしたこともあります。

その中で、
「登校拒否は病気なんかじゃない! わたしが悪いのでも、お母さんの子育てが間違っていたのでもない!」
と主人公が叫ぶ場面。

つたないけれど迫真の演技で、観客席からたくさんの拍手と涙をいただきました。


その時の感動が元になり、わたしは演劇にのめりこみ、20歳で東京の劇団に入団しました。

初めて親元を離れて、いきなりの集団生活。

それは不安もありました。

しかし、時は流れて。

それから8年間は常勤スタッフとして、劇団の仕事で全国を回りました。

さらに結婚して7年間は、北海道の会社勤めと東京の劇団とのかけもち生活をしました。

今は青森県弘前市で夫とともに子育てをしつつ、仕事をしています。


劇団にもまだ在籍していて、時折メール対応やホームページの更新をしています。

途中、経済的にしんどい時期も、人間関係的にしんどい時期もありました。

でも、結局今も関わり続けられるのは、好きで選んだことだからです。

今はフリーランスの在宅ワーカーとして、学校に行きたくない小学生の息子と日中を過ごしています。

30年経って、学校もずいぶん変わりました。

今、息子が休んでいる小学校からは特に追い詰められることもありません。

地方都市でもフレンドシップルーム(適応指導教室)や通級指導教室の選択肢もあります。

それでも、まだ。

休み明けに子供が命を絶つニュースは、毎年目にします。

だから、いま、学校に行くのが辛い、行けないあなたに伝えたいのです。

学校は社会のほんの一部で、そこに合わなかったからといって人生が「詰み」になるわけではないことを。

社会に出たら、もっと多様な人がいて、もっと多様な生き方があることを。

あなたが生きていく先に、少しでも多くの「生きていてよかった!」と思える場面がありますように。

斎藤美佳子 @urabetti

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関連記事→学校に行きたくない不登校の子どもに読んでほしい記事まとめ。

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小幡和輝 Kazuki Obata (@nagomiobata)
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NagomiShareFund & 地方創生会議 Founder/内閣府地域活性化伝道師

1994年、和歌山県生まれ。約10年間の不登校を経験。当時は1日のほとんどをゲームに費やし、トータルのプレイ時間は30000時間を超える。その後、定時制高校に入学。地域のために活動する同世代、社会人に影響を受け、高校3年で起業。様々なプロジェクトを立ち上げる。

2017年、47都道府県すべてから参加者を集めて、世界遺産の高野山で開催した「地方創生会議」がTwitterのトレンド1位を獲得。その後、クラウドファンディングと連携した1億円規模の地方創生ファンド「NagomiShareFund」を設立し、地方創生の新しい仕組みを構築中。GlobalShapers(ダボス会議が認定する世界の若手リーダー)に選出。
「高画質」 小幡和輝プロフィール 横長

メディア出演 NHK・フジテレビ・日本経済新聞・The Japan Times など