僕は小学校から10年間、不登校でした。だけどさまざまな出会いやきっかけがあり、高校生3年生の時に起業しました。僕の経験が同じように不登校で悩んでいる子の役に立ててばと思い、今までも僕の実体験をもとに発信てきました。だけど不登校にはいろんなタイプがあるので、僕の体験がすべてに当てはまるとは思っていません。ということで、不登校の経験がある方々との対談企画を全8回に渡ってお届けします。
たくさんの事例の中で共通することはなにか。また不登校の経験がいまどのように活きているのかを聞いてきました。
第4回のゲストは、吉藤オリィ(吉藤 健太朗)さんです。
※この対談は、書籍「不登校から高校生社長へ」に収録したものを、一部加筆・修正したものです。
吉藤オリィ(吉藤 健太朗)
1987年奈良県葛城市出身。小学5年~中学3年まで不登校。高校の3年間、ものづくりの巨匠、久保田憲司師匠に師事し、行った電動車椅子の新機構の発明により、国内最大の科学コンテストJSECにて文部科学大臣賞、世界最大の科学コンテストIntel International Science and Engineering FairにてGrand Award 3rd を受賞、その後寄せられた相談と自身の療養経験から、孤独の解消を志す。
高専にて人工知能を研究した後、早稲田大学にて2009年から孤独解消を目的とした分身ロボットの研究開発を独自のアプローチで取り組み、自分の研究室を立ち上げ、2012年株式会社オリィ研究所を設立、代表取締役所長。青年版国民栄誉賞「人間力大賞」、スタンフォード大学E-bootCamp日本代表、ほか AERA「日本を突破する100人」、フォーブス誌が選ぶアジアを代表する青年30人「30 Under 30 2016 ASIA」など。
目次
不登校になった期間
同じ学校にいるんですよ、私の父親の吉藤先生が(笑)そこでは当然、吉藤先生と言わなきゃいけないところもあって。
父親も先生という立場があるから、自分の息子が保健室に登校となると、「教室に戻りなさい」と呼ばなきゃいけないということもあり、非常に特殊なケースだったかもしれない。
父親とは学校は違うんですが、すごく田舎なので、僕が学校に行っていないということは大体周りにわかってしまうので。
ある種、親の仕事を否定するというか、親の顔が立たないというか…。
周りの環境というか親に申し訳ないというか、行かなかった時のデメリットが強くて頑張って行っていたみたいな感じなんですけど。
学校以外の時間が楽しくて、実はいとこも不登校なんですけど、学校が終わってからいとことずっと遊んでいたんですよ。その時間が楽しくて。
学校が辛くて学校以外に楽しい時間があって、なんでいとこと一緒に過ごす時間を長くしては駄目なんだって。
自転車通学だったので、自転車が置いてあるのが玄関から見えるんですよね。
そうすると、また行ってないなとか。
当事者である私は言われてないけど、親は近所の人から色々言われたりとかがやっぱりあったみたいで。
不登校中の親の反応は?
熱心な先生ということもあり、コタツの中にいるパジャマのままの私を無理やり引っ張り出して車に積んで運ぶとかね(笑)
今だとちょっとまずいだろうというような対応をよくされたりしてました。
その頃は、不登校という言葉もあまり言われてなかったし、いじめもあまり表面化してなかった時代なので。マニュアルも当然ないわけで仕方ないんですが、先生もアドリブで対応をしていましたね。
えっとね、私もストレスで体がしんどくなってしまっているから、お腹痛いって言うんだけどそれは傍から見ると仮病だと思われたり。
昼くらいになるとお腹が痛いのがマシになって、元気になるんだけど、元気になると何するかというと遊びに行くよねと。
そうするとまた(笑)
親に行きたくないと言うんだけど、そんな大したことないと思われてるというか。何かあるじゃない、ずる休みとか仕事行きたくないなとか、ちょっとやだなというか
そのレベル感に思われてしまう。
学校が楽しかった時期はあった?
大学に入るまでそうだったんですが、みんなと一緒に教卓の先生に向かって、まっすぐ座り授業を受けるというのが出来ない。
でも、私の場合は逃げ出すという選択肢があったんですよね。
小学校に入学した時に、あまり記憶にはないんだけど、基本的にこれは無理だなと判断したのか、授業が始まった瞬間にばっと逃げ出したんです。
走り回って逃げて、先生が追いかけてきて、毎日追いかけっこが当たり前になっていたので、先生も半分諦めていた。
授業中、副担任が逃げないように私の手を握りに来るんですよ。それを私はあの手この手を駆使してすきを見て逃げる(笑)
いかに学校を逃げ出すか、先生と喧嘩するかを結構楽しんでいました。それが楽しかったかな。
そういう意味では良い意味で緩かったのかもしれないな。
逃げるという選択肢が私の中であったので、小学校5年生くらいまでは耐えれた。
不登校になった決め手
その間にお楽しみ会とかがあって、一生懸命企画をしていたのにそれに行けなくなったショックとか、1週間も学校に行っていないと行きづらくなっちゃってね。
それが本格的に学校に行けなくなる始まり。
いったん長期間休むと戻りにくい。
学校っていうところが自分の居場所じゃなくなってくる気がして。
ボーイスカウトをやっていたんですが、ボーイスカウトも集団行動が苦手なので基本逃げ出していたんですが。
やっぱりそこにもクラスメイトとかがいたから、学校休んでるのにボーイスカウトだけ出てると言われるんですよ。
そうすると更に居場所がなくなってくるというか。
そういう意味では狭いコミュニティーだったのが辛かった。
不登校中は何をしていた?
唯一、私がすごいと言われるのが折り紙だった。
絵もうまいねとは言われていたけど、そこまでうまかったわけじゃないし、割と描く絵が独特だったこともあって。
でも折り紙で薔薇とかを作ると「すごい」と言われるのが嬉しくて、初対面の人にはいつも折り紙で薔薇を折ってプレゼントをして、何とか自分の価値を保っていたというか。
遊戯王カードを僕ら世代はみんなやっていたんですが、大会で優勝しまくっていたので和歌山で1番強かったんです。
そういう中で評価される。何かの分野で評価されると、それが自信になる。
いたずらとかも大好きだったんで、先生に驚かれるというのがとにかく好きだった。
なんでいたずらするかというと、その人が驚いてるとか、怖がっているとかリアクションが楽しみで、ついついクリエイティブさを発揮してしまうんですよね(笑)
私の場合は、「君は偉いねとか、天才だね」とか褒め言葉に対してはあまり嬉しくなかった。寧ろ相手がすごい驚いた顔とか、それこそ落とし穴にハマったような顔とかが大好きだった。
そういうリアクションが見たくて、例えば輪ゴムでバチンと急に動くようなおもちゃだったり、封筒とか開けた瞬間にガタガタ動くようなあの手の物が大好きなんです(笑)
不登校中の居場所
ボーイスカウトはやっていたんだけど、クラスメイトもいたし集団行動が苦手だったんで、やっぱり辛かったなぁ。
うちの父親がキャンプが大好きだから、たまに山に連れられて父親と山で過ごした時間は意外と長かったかも。
そこだと知らない人ばかりだから、学校に行っていないことを知らないので、全くフラットな状態で新しい人間関係を作れるのは良かったかもね。
ただし、当時は携帯電話とかもなかったし、知り合った後、ずっと関係が続くわけではなく、基本的に一期一会。そういうことは何回かあった。
小学校5~6年生の時に父親に無人島に行ってこいと言われて。1週間、和歌山の無人島でキャンプ生活を送った。途中でめっちゃお腹が痛くなって大変だったんだけど(笑)
カードゲームの話なんですけど、地元のカードショップに行かずにちょっと離れたところに行っていたんです。
そこだと僕のことを不登校ってみんな知らないから、そこがすごく居心地が良くて。
だからその子たちには未だに不登校って誰にも言ってなかったんですけど。なんかそういう居場所ってすごく大事だなって。
駄目なことはわかってるんですよね。学校に行かなきゃいけない、行ったほうがいいと何となく理解しつつも、でも行けないという。
コンプレックスは2つの見方があって、1つは「ストレス」としての取り方と、もう1つは「コンプレックスが人を成長させる」とある意味思っていて。
単純に右手が骨折した時は左手で物が書けるようになるわけだし。
自分は特定の分野ではダメだと思ってしまっているからこそ、例えば絵を描くのだったり、音楽だったり、遊戯王のカードだったりとかでは力を発揮出来るという考え方もあるよね。
学校に行かない時間を結局どう使うかだと思っていて。その間の時間て、すごく暇だと思うんですよ。
例えばオリィさんなら折り紙だと思うんですが、僕だったらゲームだったりとか。
何かにはまり込んだり、自分で時間を考えて動いていく力って才能だなと思っていて。そこを肯定して、むしろ伸ばしてあげるような。
私が絵を描いたり、折り紙を続けられたのも、別に誰にも褒められずに狂ったように絵を描いていたわけではないんだよね。
やっぱり誰かに見て欲しいとか、作った折り紙作品を誰にプレゼントをしたいとかいうのがあったわけよ。
さっき言ったみたいに、コンプレックスがあるから、誰かに認められる自分を探さなきゃいけないと思って。
たぶん、家にずっといて「何かやらなきゃ」って思える人って多くないと思う。
人工知能で人を癒せるのかという研究をしばらくやっていたんだけど、結果的にそれは無理だと判断して。
やっぱり人間って「誰かに必要とされる自分」を得たい、自覚したいんだよね。インターネット上も人だから。
例えばSNSとかも全部人工知能とかNPCキャラクター*だったらそこまで夢中になれないと思うんだよね。
*プレイヤーが操作しないキャラクター
勉強の方は最近は代用出来ると思っていて、自宅のホームスクーリングとかあると思うんですが。
コミュニティは学校の役割がすごく大きくて、行かなかったら別のところで代替えするものを持っていないと。
色んな当事者の子たちと話してる中で、そういうコミュニティがなく、本当に家だけにずっといる子って人と話すのが苦手だし。
今後、社会に復帰していくとなると色んな壁があるんだろうなと。
私も学校に行っていない子供達と会う事多いんだけど、喋るのって難しいんだよね。私も19歳までは話すの苦手だったし。
私の友人でもずっと学校に行かずに入院して過ごして来た人がいて、やっぱり人との距離感とか、何を言ったら人を怒らせるのかという感覚がわかっていなかったり。
そもそもセンスというか、人との価値観や距離感が全然違ったりする。
私はそれを「コミュニケーション非ネイティブ」と呼んでる。私はネイティブじゃなくて、完全に非ネイティブで後から勉強した人間なんで。
そんな風になってしまったのは3年半の不登校がやっぱり原因ですね。
学校に行かなくなってもいとこと遊んでましたし、適応指導教室にも行きだして、その次はゲームする友達が出来て。
学校じゃないところに常に誰かがいたなと思っていて。
たぶん引きこもる時って、まず始めは安心して引きこもりたいんだよね。
「学校に行け」とか「今やっていることは間違っているんだ」とか言われて、焦燥感とかそういう状態になっていると、心が弱っていて安定していないので、学校に行ったところで行けるようにならないし。
今思えば、ちゃんと引きこもらせてくれたことはすごくありがたい。
もちろんそれだけでずっと引きこもってしまっていたら大変だったかもしれないけど。
不登校を抜け出すきっかけ
「折り紙が出来る人はきっとロボットが出来るに違いない」と言われ、しかも「地元のロボットの大会に申し込んどいたから出てらっしゃい」と言われて出る事になり、そしたらなぜか私以外の人がクリアできなかったコースをクリア出来て優勝しちゃって。
それで、ロボットが面白いなとなんとなく思っていたら、その1年後の中学校2年生の時にロボットの関西大会があったんです。
そこに出ることになって、たくさんプログラミングをして、ロボットをちゃんと作ったら準優勝が出来たんですよね。
そこで、人生で初めてめちゃくちゃ頑張ったことが認められたという経験と、こんだけ頑張ったのに1位になれなかった悔しさの両方を得ることが出来たんです。
それが2001年でしたね。
そこでたまたま、すごいロボットを創られている先生と出逢って、その先生が地元の工業高校にいらっしゃると聞いて、その先生に弟子入りしたいなと思ったのがきっかけです。
うちの親がまた巧妙で「高校に行くためには不登校だと行けないんだよ。出席点とか内申点とかあるから、その先生のところに行けないよ」と言われて。
本当に人と話さないのが何週間も続いたので、日本語だって出てこない。
意識が朦朧としていて、勝手に夜中に家からぷらっと歩いていて、気が付いたら池の前に立っていたということもあったんですよね。
そんな状態だったので、その時の記憶が完全に鮮明なわけじゃないんだけど。それがきっかけで「学校に行かなきゃ」「1年後に高校に入るんだ」という気持ちになりました。
そういう親からの後押しがあって学校に行くようになりましたね。
元々、小学校に入った時から授業は逃げまくっていたので、私の場合は小幡くんと違ってまーったく勉強が出来ないし、やる気もない。本も読めない。
そこからのスタートで、人生で1番勉強をしたのが中学校3年生の時だと思う。
人が怖いから、面接が滅茶苦茶めちゃくちゃ怖くて。だから、面接のない入試方法を選択した。
もしかしたら押しつぶされていた可能性だってあるので、よかったかどうかはわからないけど。
その時、何かしたいという気持ちはすごくあったけど、でも何も出来ないし、世界って学校と家しか私はにはなかったから。
学校にはいれないし、家ではずっとひとりぼっちでいて、ゲームは最初やっていたんだけど飽きちゃって。
インターネットも携帯もないし、人とは繋がれない。
自分に対する嫌悪感がすごく強くて、「人に迷惑をかけ続けている」「心配をかけ続けている」という感覚があったので、自分を好きになれなかった。
「このままいない方が世の中のためなんじゃないか。親とか学校のクラスメイトも、もしかしたらそれを望んでいるんじゃないか」。
そんなことまで考える状態になっていたから、ものづくりで世の中に役立つものが作れるんじゃないか、溜め込んでいたものを吐き出せるんじゃなというものに高校時代に出逢えて。師匠に物作りを教えてもらって、車椅子を作ったら世界3位の賞が取れたりだとか、アメリカにプレゼンしに行ったり、そういった経験が出来たのは本当に良かったな。
ただ1つだけ言いたいのは、生まれ変わったら不登校は絶対に経験をしたくない(笑)
学校はもし行けるなら行った方がいい
無理やり行けとは言わないし、学校が合わないと思ったら行かなくてもいいけど、ただ居場所を失うのは本当に辛い。
だから私は「居場所」という概念にこだわっていて、シェアハウスも運営してたりする。
オリィっていう名前も折り紙からもきているんだけど、例えばTerritory(テリトリィー)とかねFactory(ファクトリー)とか「場所」っていう言葉の後ろに付く言葉だったりするんだよね。
自分がそこにいても良いと思える場所が仕事の話にも繋がっているんだけど。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)*の人は日本に約1万人いるんですが、呼吸器を付けたら延命が出来るんですが、呼吸器を付ける人は約3割しかいないんですよ。
*重篤な筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経変性疾患で、運動ニューロン病の一種。極めて進行が速く、半数ほどが発症後3年から5年で呼吸筋麻痺により死亡する(人工呼吸器の装着による延命は可能)。治癒のための有効な治療法は現在確立されていない
理由は寝たきり、目しか動かなくなって、意識はハッキリしているのに何も出来ない。
でも、社会や周りの人たちは自分のために色々やってくれる。
それに対して「ありがとう」という言葉すらかけることも出来ない。
「家族に迷惑を掛け続けて、このまま生き続けるのなら、自分は死んだ方が良いだろう」ということを正常な頭で判断し、呼吸器を付けないで尊厳死するという死に方をしている人に何人も会ってきました。
私も友人を何人か亡くしたんだけど、居場所っていうのは「この世」でもあるんだよね。
この世に「居場所」が得られるかどうか。
つまりこの世の中に、学校は小さなコミュニティだとしても、この世という大きなコミュニティの中で自分はもうこの世にいない方がいいなと判断するのはあまりにも辛いことだと…。
自分がここにいるということが認識され、その人が「ここにいる価値」とか「いる意味」を作り出していく。
それが私の考える孤独の解消方法で、人工知能のパートナーロボットを作るんじゃなくて、人間のコミュニティに入っていくためには、体が動かない人でももう一個の体を使って学校に行けるようにしたりだとか、適材適所の方法を作り出す。
そういったことを今やっているわけなんだけど、そういったことをするための原動力には間違いなくなっているよね。
本当に自分でも死にたいと思ったときにはあったしね。
そういう経験をする人が少しでも減ったら良いなとは思っている。
私は、何かを得るためにはコミュニティや人は欠かせないと思う。
本当にひとりぼっちで部屋にいて何もない状態で部屋に縛られて何かを生み出すことは絶対に出来ないと思っている。
学校に行かなくても、ずっと家にいるんじゃなくてね、学校は選択肢の1つで、小幡くんが言ったみたいに、同じような趣味の人が集まれる場所だったり、たまにはゲームの大会に参加してみようとか。
これからはそういう選択肢が出来る子供が増えたらいいなと思いますね。
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